創 設 期 |
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| 呉市の平坦部は,沼沢地を埋め立てた土地のため,井戸水の水質は極めて悪く,連年,悪疫の流行に悩まされていたことから,明治35年の市制施行時には,すでに水道布設を要望する声があがっていた。 |
| 日露戦争の勃発した明治37年9月,軍都の保健衛生及び防火上の見地から上水道布設の必要を痛感した,ときの荒尾金吾市長は,二河奥から安芸郡焼山村に至る間を踏査し,上水道布設構想を樹立,これが最初の呉市上水道布設計画とされる。市長は,引き続き広島県技師中桐春太郎に水源候補地実地調査を依頼し,翌38年4月には水道調査委員会規程を制定し,上水道布設計画の実現に乗り出し,布設に関する調査,研究を実施した。 |
| その結果,多少の紆余曲折はあったものの,当時の呉市の財政基盤では新規の水源の水源地築造は困難であり,折りしも海軍が拡張工事を進めている海軍専用水道の焼山水源から余水分与を受けるほかに道はないとの結論に達した。 |
| このため,明治44年7月,荒尾市長は,余水分与の請願を呉鎮守府司令長官宛に提出した。 |
| 呉市の上水道布設に関しては,軍港都「呉市」の衛生状態は直ちに海軍の士気にも影響するとして,海軍当局も深い理解を示しており,大正2年3月に至って呉鎮守府司令長官からの余水分与の指令に接することになるが,この間,荒尾市長は病気退任,その後を沢原俊雄市長が継いでいた。 |
| 上記指令により,大正2年8月,海軍の余水を二河の滝左岸で受水し,これを平原町に新設する浄水場に導水し,処理した後,市民に給水するという「呉市水道布設計画案」を市議会において可決した。 |
| 翌大正3年,先の「水道布設計画案」の一部変更の可決を経て,大正4年3月2日,水道布設工事費に充当する104万2千円の呉市水道公債条例認可の運びとなり,財源措置確定後の3月8日から浄水場用地買収の交渉を開始した。その直後の3月9日,内務大臣からの水道布設工事の認可とともに27万円の国庫補助指令を,さらに5月12日に,広島県知事から15万円の県費補助指令を受け,大正4年7月12日,平原浄水場用地において地鎮祭を挙行し,呉市水道布設工事を起工した。 |
この工事は,折からの欧州動乱の影響を受けて,資材不足等に悩まされたものの,関係者の努力によって,約2年8ヶ月後にはほぼ施工し,大正7年4月1日から市民給水を開始した。
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▲起工式場(大正4年) |

▲浄水場築造工事前の状況(大正4年)
写真上部の木立に平原神社が見える。
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▲ろ過池築造工事(大正5年~6年) |

▲ろ過池竣工(大正6年) |
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